現存天守12城の中で、最も高所にある山城といえば岡山県が誇る「備中松山城」です。
天空の城というかっこいい通り名を持っていますね。
日曜日は、秋晴れの良いお天気になったので、ぶらりと伺いました。
ところで、まさにその日、フジテレビの日曜ファミリアという番組で、備中松山城が取り上げられていたようです。
なんという偶然。
どうせテレビで見たんでしょって言われたらいやだなあ。
その番組は見てませんからー。
多分お城から見える一面の雲海とかを取り上げてるんでしょ。見て無いから当てずっぽだけど。
ま、それはさておき・・・
ご覧のとおり快晴なので、ワインディングが超気持ちいいです。
位置関係を地図で説明するとこんな感じ。
お城の所在地は、高梁市というところです。
ざっと1時間くらいの距離ですね。
高梁の街は、小さい地方都市ですが、なかなか風情があります。
踏切の向こうの古い土塀は、県立高梁高校です。
ここの生徒さんがとても礼儀正しくてですね。
通行人の私に挨拶をしてくれました。
ちなみにこの高校は、備中松山藩主の平時用の居館跡に建築されたそうで、武家屋敷っぽいつくりです。
高梁の街には、ここ以外にも武家屋敷が多数残っています。
この坂をずっと登ると、備中松山城行きのシャトルバス乗り場があります。
お城近くは狭いので、自家用車ではいけません。
ここで乗り換えです。
侍に扮したスタッフがお出迎えしてくれました。
備中松山城外観図です。
シャトルバスに乗ったのが城見橋Pで、鞴峠(ふいごとうげ)でバスを降ります。
戦国時代以前は、大松山城と合わせて広大な城郭を形成したようです。
鞴峠からお城までは、結構険しい山道を登ります。
石畳は往時のものでしょうね。年季が入っています。
ところどころに立て札があります。
うむ、左様であるか。
振り返ると高梁の街が一望できました。高い!
ここら辺はすごい霧が発生します。あなたの想像以上に。
高速道路で近くを走っているときに、霧が発生すると怖くて仕方がありません。
でもここから見ると霧が雲海となり、さぞかし幻想的で良い感じなんでしょう。
運動不足で息があがりつつ、なんとか登りきりました。
いやはやかたじけない。ご歓待痛み入り申す。
この石垣はすごい。
まさに難攻不落の要塞です。
2層の天守は、権威をひけらかすためでなく、実用本位という感じがします。
お城の実用本位って戦争のためってことです。
実際、この高梁という地は、山陰と山陽を結ぶ交通の要衝であり、激しい奪い合いがおこなわれた戦乱の歴史があります。
お城の歴史は古く、鎌倉時代、承久の乱の戦功により秋庭氏が備中国有漢郷の地頭になり、大松山に築城を始めました。
戦国時代には、三村氏と庄氏でこの城の奪い奪われを繰り返しています。
最終的に毛利氏の名将小早川隆景に攻め落とされ、毛利領となります。
江戸時代に入ると備中国の首都として徳川将軍家直轄の天領となり、中国地方各地へ睨みをきかせました。
明治時代になると廃城令もあり、打ち捨てられます。
昭和の初めにはこんな無残な姿になっていたそうです。
向こう側が透けて見えますね。
ここで崩壊しなかったおかげで、今の時代に現存天守を名乗ることができるわけですが。
天守の中に入ってみましょう。
1階の広間には、囲炉裏がありました。
天守には珍しい設備ですね。籠城に備えたものでしょう。
暖を取ったり、調理に使ったり、実際に使われたはずです。
一階北側の奥には小さな部屋があります。
戦況が悪く、もはやこれまでとなった場合、城主が腹を切るためのの部屋です。
さらに2階にあがってみます。
この立派な梁!よくぞ崩落をせずに耐えてくれました。
格子窓から外を見ました。
高梁の街を見下ろせます。戦況をここから見た殿様もいたんでしょうね。
華美なもの、権威を示すものは見当たらず、すべてが戦のためにあるお城でした。
後楽園という舞台装置を持ち、豪華絢爛で権威をアピールしている岡山城とは対極にある感じがします。
いやあ見応えがありました。
戦国の息吹を感じられるすばらしいお城です。
さて山を降りようとすると立て札が・・・
是非に及ばず!
(おまけ)
帰りの道すがら、備中国分寺のまわりは秋桜(コスモス)が、見頃を迎えていました。
もうすっかり秋ですね。