3月は年度末なので、毎日本業が忙しいです。
チワワワークスの本業はシステムエンジニアなのです。
今は特に自分担当のプロジェクトを差し置いて、同僚の炎上プロジェクトの応援に出張っているので、なおさらです。
工程ごとの納期のノルマは一つ一つ必達です。
炎上した以上、リスケジュールした工程それぞれが、納期を守られて進行しているか、監視しないといけません。
要はノルマは大事ですよ〜って話がしたいんです。
こんな仕事をしている関係上、普段からノルマって言葉に慣れ過ぎていて、そもそもノルマって何なのか考えたことがありませんでした。
そんな時に目に付いたのがこのニュース。
石黒謙吾氏が語った驚くべき「ノルマ」の語源 - ライブドアニュース
ノルマってロシア語で、シベリア抑留由来で日本に広がった言葉だったんですね。
私が、「シベリア抑留」というキーワードで最初に思い出すことは、亡くなったお祖父さんのことです。
私のお祖父さんは明治生まれのとても気骨のある人物でした。
昔気質の金属加工の職人さんです。
お祖父さんは、まだ幼い私が昔話をせがむといろいろとお話をしてくれました。
その記憶がパッと蘇ってきました。
お祖父さんの昔話
お祖父さんは、当時としては珍しい、大変な大恋愛の末、駆け落ちのようにしてお祖母さんと所帯を構えたそうです。(この話は直接聞いたわけじゃない)
しかし結婚してすぐに、赤紙で召集され、中国戦線に送られたそうです。
お祖父さんは敗色濃厚な満州の各地を転戦しました。
そして終戦の間際の1945年、日ソ中立条約を破棄したソヴィエト連邦の対日参戦を受けてソ連軍と戦うことになります。
もう弾薬も食料もほとんどない日本軍は、山に籠もって息をひそめることしかできなかったそうです。
食べられるものは、鼠でも蛇でもなんでも食べたそうな。
最終的にソ連軍の降伏勧告を受け入れて、ソヴィエトの捕虜となりました。
有名なシベリア抑留者の一員となってしまったわけです。
しばらくして日本は降伏しました。
長かった戦争は日本の敗北で終わりました。
大陸へ送り込まれていた兵士で、運のいい人は、日本に帰ることができました
戦争復員者の引揚げ港として最大の港は舞鶴港です。
お祖母さんも舞鶴へ迎えにいきましたが、当然お祖父さんを見つけることはできませんでした。
http://www.maizuru-kanko.net/story/hikiage.php
シベリア抑留の記憶
その頃、お祖父さんはシベリア鉄道に乗ってソヴィエトの内地へ送られていました。
ウラル山脈のふもとまで連れて行かれたそうです。
下の地図の丸で示した箇所が、ソヴィエトの強制収容所のあった場所です。
ウラル山脈は、カザンとスベルトロスクの間にありますから、その付近の収容所は、1箇所しかないですね。
お祖父さんが収容された場所はスベルトロスクかもしれません。
http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm
スベルトロスクは、現在では改称されてエカテリンブルクと呼ばれています。
130万人の人口を抱えるロシアでは5番目の大都市です。
お祖父さんはそこで木を伐採する強制労働に従事します。
そこではやっぱりノルマがあったそうですよ。
たしか伐採した材木の体積だったはず、お祖父さんはそう言っていました。
他のシベリア抑留体験者の証言を調べてみましょう。
作業の現場は、収容所から四十分程歩いた所にあった。気温は零下三十度。シベリアの森は果てしなく深い。雪の森は呼吸を止めたように静かで奥は暗かっ た。青柳さんたちは、白の世界に呑み込まれるような恐怖心を抱いて森に足を踏み入れていった。現場に着くとこまごまと指示がある。例えば、切り倒すのは、 直径三十センチ以上の木であること、切り株は地面から三十センチ以下にせよ、そして、切り倒した木は枝を払って、長さ五メートルに切断せよという風に。そ して、切った木は、横二メートル高さ二メートルに積み重ね、これが二人分のノルマと定められる。ノルマを達成出来ないとそれに応じた食事しか与えられない し、厳しい懲罰もある。作業は、正に命がけであった。
http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/siberia/05-05.html
確かに体積ですね。
しかし一人当たり10平方メートルが日々のノルマとは、過酷ですね。
うっすらあるお祖父さんの話の記憶でもそう言っていたように思います。
亡くなった同僚もいたらしい。
それにしても、あの時のお祖父さんの話が日本のノルマの語源だったとは・・・
びっくりぽんですわ。
お祖父さんは、生真面目で愛嬌もあってソヴィエトの将校からは信頼されていたそうです。
なので個人的に食べ物をわけてもらえることがあったと言っていました。
そのせいかお祖父さんはロシア人を悪くいうことはありませんでした。
この写真は、1910年ごろのスベルトロスク(エカテリンブルク)です。
お祖父さんが見たかもしれない景色です。
3年間の強制労働を終えて、お祖父さんは無事に日本へ帰れることになりました。
舞鶴港で、迎えに来たお祖母さんと再会し、ようやく夫婦の穏やかな生活を取り戻したそうです。
明治生まれの日本人は強く逞しかったといいます。
お祖父さんは、まさにそれを体現している人でした。
私も本業のノルマだけでなく、自分の仕事も進めないといけませんね。
タフにいきましょう。