タイミングの悪いことに、クラブワールドカップの決勝、レアル・マドリー対鹿島アントラーズという最高にエキサイティングな好ゲームと同時刻になってしまったのですよ。
だからサッカーをリアルタイムで観て、真田丸は翌日録画で見ることにしたので、このエントリーを書いてるのは1日遅れです。
ドラマ真田丸の最終回は、とっても面白かったのですが、アクションシーンが多くて、真田幸村(信繁)の戦略についてあまり深く掘り下げられなかったのが残念です。
幸村は、すでに天下人になっている徳川家康を迎え撃つという圧倒的に不利な状況にも関わらず、確実に家康を討ち取るための戦略を立てていたのですよ。(正確に言うと戦略と戦術とは別で、以下の話は戦術に近いのですが、細かいことは言いっこ無しです。)
真田幸村が立てた大坂夏の陣の戦略
大坂夏の陣は、大まかに分けると「道明寺・誉田合戦」と「天王寺・岡山合戦」に分けられます。ここでは最後の天王寺・岡山合戦だけを取り上げます。
前回の大坂冬の陣で、大坂城は外堀・内堀の両方を埋められてしまい裸城になっています。なので、もう城に使い道はありません。幸村は野戦に勝機を見出すしかありませんでした。
しかし野戦は大軍を擁する方が圧倒的に有利な戦です。そして家康は諸国の大名を引き連れた30万もの大軍で戦を仕掛けてきました。対する豊臣方は浪人を中心とした10万人。数では勝ち目がありません。裸城に大軍、徳川方には楽勝ムードが充満していました。
せめて堀があれば、寡兵でも大軍を迎え撃つことができるのですが・・・・
実はあったんです。当時の大坂に使える堀が。
大坂の中心部には、上町台地と呼ばれるかなり高い台地があります。台地から見て海側の平野部と内陸の平野部を結ぶ水運用に台地を削って通されたのであろう古代の水路跡が、当時の四天王寺の南側にまだ残っていました。真田幸村と毛利勝永は、この水路跡を整備して堀を持つ砦に変える突貫工事をおこないます。幸村は茶臼山で、勝永は四天王寺で、徳川軍を迎え撃つことにしました。
この堀はかなり防御に有効で、徳川軍はここから先へ進むことができません。楽勝のはずが全然ダメな状況に家康は怒り心頭です。前線司令官の本多忠朝(戦国最強の誉れ高い本多忠勝の息子)を叱咤しまくります。忠朝は冬の陣でも失敗をしていて、焦っていました。結果、徳川軍は被害の拡大も厭わずに無謀な突撃を繰り返すことになります。
反攻の開始
徳川軍は前のめりになりすぎました。これが真田幸村たちが狙っていた千載一遇の好機だったのです。サッカーで言うところの裏をとるという状態。前線と家康のいる本陣の間がガラ空きになってしまったのです。
まず毛利勝永が東側から砦を出て突撃を開始します。この時の勝永の戦働きは鬼神のようでした。まず本多忠朝を打ち取り、そこから小笠原秀政・浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純らの各軍を打ち破っていきます。前線に密集しすぎた敵軍は騎馬隊で蹴散らされると成すすべがありません。徳川の前線は混乱の極みにありました。
間髪おかずに真田幸村が西側から砦を出て、前線の敵兵を騎馬で突破して、前線と分断された家康のいる本陣を一直線に狙います。完璧に幸村の術中にはまったことを悟った家康は、本陣を捨て、逃げて逃げて逃げまくります。
家康は考えます。もし幸村の軍に捕まり、自分の首を取られたら、徳川の威光は失われ、ひょっとすると政権が瓦解するかもしれない。そうなる前に自分で腹を切り、家康の首が、敵方に渡らないようにしようと。
しかし徳川の家臣たちが必死に止めたため、なんとか家康の自害は免れました。
真田幸村はどれほどの劣勢に立っても決して勝利の望みを捨てていませんでした。この戦略を考案した時には必ず勝てると確信していたものと思われます。
豊臣方の敗北
ここで豊臣秀頼が戦場に登場し、豊臣の威光を知らしめたなら、徳川軍内にも多数いる豊臣恩顧の武将たちが動揺し、豊臣方の勝利は決定的になったでしょう。しかし秀頼は決して大坂城から出ることはありませんでした。このくだりはドラマでも描かれている通りですね。
おそらく大坂城の文官たちは、勝てる訳がないと考え、徳川方の慈悲にすがるつもりだったのでしょう。だから激しく抵抗を続ける幸村たちを疎ましく考え、邪魔をしたのかもしれません。家康の機嫌を損ねるような事が無いように。
さらに幸村ら前線の豊臣方には、不運が色々と重なり、逆に徳川軍に押し返されるようになります。真田幸村と毛利勝永は砦の内側に戻り防戦一方となります。
もう一人の徳川方前線司令官の松平忠直は、執拗に突撃を繰り返し、ついに堀を突破して茶臼山の砦へ乗り込み始めます。真田幸村は後退して抵抗しますが、茶臼山の裏にある安居天神でついに最期を迎えました。毛利勝永は大坂城まで戻り、自刃する豊臣秀頼の介錯をしてから、自害して果てます。豊臣の陪臣たちからは、信用のおけない浪人どもという扱いを受ける彼らでしたが、結局、最後まで忠義の士であることを貫き通しました。
下の写真が現在の茶臼山です。手前の池が例の古代の水路跡の名残だと言われています。
戦後の真田幸村
大坂夏の陣が終わり、徳川家康の陣屋へ真田幸村の首が運ばれます。その首を見た家康は、配下の武将たちへ語りかけます。これが日の本一の兵(つわもの)の面構えであると。激賞と言ってよいでしょう。そして幸村の髪を少し切り、戦で特に功績のあった武将へ褒美として与えました。武将たちは幸村の武勇にあやかりたいとこぞって請い求めたと言われています。幸村の首は三条河原にさらされることもなく、敬意を持って埋葬されました。
通常、時の政権へ歯向かった人間は、徹底的に貶められ歴史の闇に捨て去られるのが普通です。しかし真田幸村は完全に例外となり、徳川の世であっても絵巻物の主人公になったり、日の本一の兵として長く語り継がれることになります。
「大坂夏の陣」ゆかりの場所
前回のエントリーで慶沢園と茶臼山を取り上げましたが、そのついでに真田幸村最期の戦い「大坂夏の陣」ゆかりの場所を色々と廻りました。
例えば古代の水路跡って茶臼山の池以外にも残っているんですよ。
下の写真を見てください。道路が少し窪んでいるのがわかりますでしょうか。これは現在の谷町筋、天王寺駅と四天王寺の中間地点くらいの場所です。もう埋め立てられていますが、今でも水路の窪み跡が残ってはいるんですね。日本バプテスト大阪教会の前あたりです。
一心寺存牟堂
大阪夏の陣の歴史散策をするならば、絶対外せない場所が一心寺存牟堂(ぞんむどう)です。茶臼山入り口の向かいにあります。無料で利用できます。
存牟堂では、大坂夏の陣の経過が良く分かる7分ほどの映画を上映している他、立派な夏の陣の金屏風絵が見れたり、歴史散策マップがもらえたりします。
金屏風絵の石の鳥居を見てから、すぐ近くにある本物の四天王寺の石の鳥居を見るとなんだか感慨深いものがあります。
どれほど絶望的に思える状況であっても、決して望みを捨てず、勝利のための手を全て打つ。
そんな真田幸村の生き様は、後世の人たちに勇気を与えますね。
あ、そういえば、絶対に勝ち目がないと言われた銀河系軍団レアル・マドリーに対し、一歩も引かずに善戦し、倒す寸前まで持ち込んだ鹿島アントラーズも幸村イズムの後継者かもしれないですね。チームカラーは赤で同じだし、チームシンボルが同じく「鹿の角」という奇遇。現代においても、幸村の魂は生き続けているのです。